谷川雁セレクションのⅠとⅡ。
星野道夫氏のエッセイの中で取り上げられていた、「風」についての印象的な文 >>> を書かれた人である。
ええ、難しい文章を読みつけないのですが、彼の文章の力強さに引かれてなんども眠りつつもがんばって見ますが、難しい言葉のつながりに迷ったり、内容にまつわる知識不足の想像力不足で、結局ぐっすり寝ます。
読書メモ程度に・・・。
彼は1923年生まれなので、舞踏の土方巽が1928年生まれだったことを思えば、彼らは活動の社会的素地を同じくして、ちょうど1960年前後の政治闘争、暴動、衝突、抵抗という文脈のなかで生まれた思想を育んだ。現代の、汚いもの、まずいもの、暗いもの、死などを、ふんわりゆったり優しく包んで見えなくしてしまっている状況から生まれる一般主流の表現物とは大違い。
(まぁ、ここに書いていることが一般主流のこと止まりから抜け出ないので、再度読書ノートです、と、自己弁護します…。30年後ぐらいに何か分かることがあるかしら・・・。)
というよりも、当時彼(ら)は現在ような社会になっていく予兆に対して革命を起こした。
・・・さて、革命はどこに行ってしまったのだろう。
(『試行のために[『試行』創刊宣言]』より 谷川雁/起草責任者、村上一郎、吉本隆明)
(略)
資本の物神化が極限まで押し進められる時期、したがって物神的観念がいわばみえない工作機械として生産機構の中枢に意識的におかれる時期 - そのときには何が起こるか。
(略)
かくて、おそろしいといってよいほどの無感動の波が襲ってくる。この世の色界、音域、形相の一切を動員し、どのように組みあわせてみても、そのヴァリュウはめのまえのささやかな存在の尖端にかけられた重みに匹敵することができないかのごとくである。感動がありえないのではない。それは定着しないのだ。陰影すらも幾百万分の一秒ほどの超高速で資本の無政府性の側に吸いとられ、擬制の建築を構成する砂利となるか、虚空へ放散するかしかないからである。(略)
(あなたのなかに建設すべき自立学校を探求しよう!より)
(略)
なにものにもなりたくない!名づけようのないものになりたい!ひっぱってもつまんでも変わらないおれと、猫の目のように変わるおれとの間の、そのすきまの、かっこうのつかないところに、ほんとのおれがいる。「おれ」といってよいのか、「いる」といってよいのか。とにかくおれは、そこにきまってあぐらをかいているおれが気にくわぬ。
おれはおれをもっとはさみつけ、おれはおれをしぼりだし、空っぽのチューブになりたいのだ。しぼりだされたものがどんなにあざやかな血の色をしていようとも、おれはそのために働くのではない。もはや残りすくなにみえるすきまが縮まれば縮まるほど、そこは広大な宇宙に近づいていくからだ。
あなたはそういうふうに考えたことがありますか? 個人は割れており、割れている個人のなかに集団があり、その集団を外におしのけるにしたがって、深刻な集団が個人のなかで息をしている。あなたのなかの、追いつめられたひとしずくの集団と闘うべし。そうすれば、あの気だるい進歩的良心とおさらばしながら、あなたは集団そのものとなっていく。
(略)
*おめでと、Sちゃん*
