昨夜のお通夜に続き、お葬式に参列。
突然の実感のないお別れである。
久しぶりに家族の方たちにも会ったため、私は思わず笑顔を見せてしまったが、家族の方の赤い目にすぐに気が引けて、まともに挨拶も出来ず。町内、近所の方々も結構来ているらしいがよく分からない。
昨夜は、浄土宗の慣わしとかで、僧侶を囲んで座り「ナンマンダブ」と繰り返しつつ、大念珠繰りをする。モダン生活の日本で、原始宗教のように円形になって中心をむいて皆で一つのことをするのは、私にとって初めてのこと。そうだな、椅子取りゲームぐらいか。向きが反対か。
今日は僧侶が2人。前と後ろと並んで座って、後ろの若い僧侶が拍子をとるように、大きいおりんと大きい木魚とジャンジャンと鳴るシンバルをたまに合いの手をいれる。
ちょうど同じ時間ぐらいに大分で、ぜひ行きたかったライブ(大小さまざまなおりんや銅鑼を使ってられる音楽家の方の >>>)があってるのだけど、家族の別の件で行けないとしていたが、こういう形でおりんと遭遇だ。うむ。
最近、読経熱、マントラ・チャンティング熱が高まっているが、やっぱりしたいなぁ。
相変わらず、気が引けて家族の方に近づけない。
大切な人が亡くなったとき、やはり感情が走ってしまってコントロールできないのは当たり前だろうなと思う。生から死という移行、一つの生命(人)にとって大きなエネルギーの要る変遷がある時、その生命と影響しあっていた(生活してきた/時を分かち合ってきた)他の生命(人)からも多大なエネルギーが放出されることだろう。
きっと、健康なのだ。
と同時に思うに、大切な人の死に際して大切なことがある。
それは、静かな目を開いてその死に対峙すること。
その移行に伴う損失をきちんと埋め合わせるために。身をもって生命の中身を晒してくれた故人のために。
箸が触れるたび、お骨が乾いて高い澄んだ音を出していた。
この夏は本当に、生の光と死の闇、もしくは生の闇と死の光かもしれないけれど、それらが明らかな対比を見せていて、少し不安定な気分である。
友人が見せてくれた『Jung and the Native American Moon Cycles : Rhythms of Influence』という本に、私の年あたりは「親、家族との別れ」というサイクルにあるらしいことを見た。血のつながる家族、もしかしたら、今まで社会的につながってきた友たちを家族に含めると、ある転換が迫っているのだろうか、なぁ。
